奈良にて、入院中の母を見舞う。

奈良の景色

姉に連れられて、病室の戸を開けると、付き添う父と、ベッドに横たわった母がいた。父が、来てくれたで、誰かわかるか、と母に問いかける。母は私の方見ながら懸命に口を動かし、微笑んだように、私の名を呼んだ。よかった。これが1年ぶりの再会だった。

脳梗塞。救急車で運ばれ、緊急入院した当時は、父の顔さえ誰かが解らずに、言葉すらおぼつかなかったのだが、かなり回復したという。続けて父は、おまえの誕生日はいつや。年はいくつや。今日は何日や。と、問いかけていく。精一杯考える母の口からひねり出すように、頓珍漢な答えが。とにかく、話しかける、考えさせる、頭を使わせる、記憶などを呼び覚まさせることが、リハビリの一歩なのだ。

私が、大分から来たというと、母の目が輝き始めた。多少ろれつが回らないが、口調はしっかりしている。大分か。別府の近くやな。たどたどしい口ぶりで、今は87才の母が若かりし女学校時代の修学旅行で、大阪から汽車に乗り、長崎の天主堂などを訪れたという。戦前だから原爆被害を受ける前だ。さらに桜島別府温泉などを巡って、別府港から船で大阪港に帰った、などと。古い、しかし自分に楽しい記憶は、しっかりとまだ生きているのだ。

今日は何日、今は何時など、刻々と変化する事象に敏感に対応して、それを逐次覚え、理解し、さらに反芻する。健常な私たちにとって、当たり前の感覚が失われている。さらに右の脳内部には梗塞部分がかなり残って、左半身の自由が思うようにならない。一番もどかしいのは、母なのだ。

それにしても脳梗塞の原因は、何で。トイレの近い母は、寝る前に十分な水分補給をためらったのだろうか。父は、42度くらいの熱いお湯を好んで入浴する。母にとっても、多少湯温は下げたであろうけど、高血圧状態が要因となったのか。私も50代、もはや高い湯温は避けるし、食後直ぐや、酒を飲んでの入浴は絶対しない。メタボリック対策は日々意識はしている。さて、父は毎日、昼前から、母の食事が終わる夜まで付き添っている。母も日増しに良くなっているという。87才のふたり、まだまだ人生を楽しんでもらわなければ。