こんなに麗らかな良い天気、なのに。その1


私の頭の中は、どよーんと黒雲が居座っている。その黒雲は時々、私の目を通して猛烈な雨を降らせている。妻の黒雲はもっと厚く重い。もう、どうしようもない。運命に任せるしかない。今は動物病院の治療ゲージに横たわって点滴を受けている陸の気力に委ねるしかない。それは、金曜日の午後9時過ぎに始まった。夕方の散歩時に、少量ではあるがうんちをしたはずなのに、また外に行きたがった。いつもなら夜半頃なのに、それより3時間くらい早い。とにかく、陸を外に連れて出た。100メートルほど陸は焦るように私を引っ張って歩いて、たっぷりとうんちをした。用事を済ますと、陸は直ぐに頭を我が家に向け、私たちは帰った。その30分後に陸は私たちの目の前でゲロをした。その日に食べたものがほとんどだった。深夜に入り、陸は歩みの遅い散歩、帰ってはゲロを繰り返し、私は2階の寝室に上がらずに陸のそばで様子を見ながらうとうとした。

土曜日の朝が来て、ほとんど寝ていない私に代わって、朝の散歩は妻が行ってくれた。陸は久しぶりに妻と散歩ができて、いつものように歩きながら時々妻の顔を見上げは楽しそうに歩いたという。その朝の散歩は2時間後、もう一度あったという。私はその頃、2階の寝室でぐっすりと寝ていた。土曜日の午後は、いつもは二人で図書館に行くのだが、妻だけで行ってもらい、私は陸の様子を見ることにした。また、真っ黄色いゲロを2回した。それは犬の胃酸だという。ゲロとゲリの原因は、なんなのだ。陸があっという間に盗み食いをしたイカナゴなのか?最近の陸は、犬用おやつの空袋をゴミ箱から取りだして舐め続けて、浅ましいほど食欲には呆れるくらいだった。その反動か?それとも、昨年末のCT撮影時に見つかった肝臓腫瘍なのかい?そのときに、お腹の毛を剃ったのだが、一向に毛は生えてこないし、ますますお腹のふくらみが目立つ。まさか、内臓が腫れて膨らんでいる?いろいろと想像を巡らすが原因など解るわけがないと諦める。

※長文なので分割しました。次は、その2

こんなに麗らかな良い天気、なのに。その2

土曜日の午後は外に出たがることもなく、夕方の散歩はいつもの短めコースを歩いた。更地の草地に入って用を済ませた。その後、すぐに草地の上にペタンと腹ばいになった。こんなことは初めてだ。ちょっと歩き疲れたか?3分待って、歩いたがシッコをして、またペタン。5分待って、「陸、帰ろう、帰ろう」と言い聞かせて、最初は引っ張るように歩いた。直ぐに陸は私と歩みを揃えた。お知り合いのワンちゃんと擦れ違ったが、陸は見向きもしなかった。あれっ?向こうのワンちゃんは、こちらを振り返りながら離れていく。向こうも、あれっ?かな。土曜日の夜も、2度ほど散歩に出たが、用を足す度に腹ばいになった。ゲロも相変わらずだった。水を飲ませるのを止めることにした。

夜が明けて、日曜日朝の散歩。陸はなかなか行きたがらなかったが、妻が玄関で「おいで、おいで、散歩に行こう」というと、ぬたりと玄関に降りた。最初、陸は、妻と散歩だ、と思ったのかなあ。喜んだ?妻だから?それでも、陸は私と散歩に出た。50メートルほど歩いて、しっこをした。それを見た私は仰天した。何?しっこが赤い。赤ワインのようだった。私自身の血尿はたっぷり経験済みだが、陸の血尿は初めてだ。妻に電話をして、すぐ近くだったのでむりやり連れ帰った。これは深刻で完全に病院行きだ。しかし、なおも陸は散歩に行きたがった。午前9時の開院時間にもあまりある。しかたがないのでもう一度連れ出す。いつもの草地にたどり着き、ウンチをした。当然ゲリで、量は少ない。胃から食べ物も水も通過していないのだから少ないのは当然だ。これは病院で点滴かなと思いながら陸を見ていると、赤いシッコを済ませて、昨日のように草地に腹ばいになった。まあ、いいか。5分待ったが、動かない。10分でようやく動いてくれた。また10メートルほど歩いて、シッコをして草むらにペタン。私は携帯電話で、妻を呼んだ。すぐに妻が自動車で到着して、陸に呼びかけるとようやく動いた。車まではまだ20メートルの距離。そのとき、仲良しの柴犬ちゃんが通りがかった。妻が、飼い主さんに事情を話すと、みんなで陸を励ますように一団となって陸と歩いてくれた。やっと陸は車に乗り込み、そのまま動物病院に直行した。

※まだ、その3に続く

こんなに麗らかな良い天気、なのに。その3

病院の診察室に入ると、直ぐに採血が始まった。いつもは必死で部屋から出たがるのに、疲労困憊なのか大人しく診療台に引き上げられた、ほとんどじっとしていた。何と早いもので10分ほどで血液検査の結果が出た。腎臓の数値が異状に悪いという。エコーや点滴が必要で、当然ながら陸は病院におあずけとなる。診察台から陸を降ろすと、とたんに逃げようとした。以前ほど力強くはないが元気はある。私が入口方面を塞ぎ、懸命に陸をなだめる。それでも隙間に突進しようとする陸。妻の「よろしくお願いします」の声が聞こえると、リードを替えられ、陸は奧に引っ張られていった。それでも、こちらに来ようとしている。やがて陸は見えなくなった。午後5時にエコー検査の結果が出るので、また動物病院へ話しを聞きに来た。もちろん、入院中の陸の顔を見ることが第一だ。2階にある動物病室の格子ゲージの中で、陸は前脚に点滴をされ横になっていた。狭い格子なので手が入らず届かない。陸はこちらを目で追っているようだ。

また1階に降り診察室で先生の話しを聞きながらエコー画像を見ると、肝臓の腫瘍はかなり大きくなっている。腎臓にも大きな腫瘍が。副腎にも腫瘍が見える。私たちは愕然とする。やっぱりポッコリお腹の中は、腫瘍が膨らんだものだったんだ。そりゃ〜苦しいはずだ。痛いはずだ。部屋で伏せをして薄目になり、口を少しばかり開け舌をちょろっとのぞかせ、ハーハーしていたのは痛みに耐えていたのだろう。ああ、陸の気持ちがまったく伝わっていない。推測もできていなかった。文明機器がこれほど進化しても動物とコミュニケーションが未だに取れない。犬と人間とで思いの交信ができていないのだ。草地で腹ばいになったのは、膨らんだお腹が熱かったのだ。今となっては、ゲージに入っている陸に何もしてやれない。触れることさえできないのだ。私たちは家に帰り、夕食が終わった頃、突然に病院から電話があった。しっこが出なくなり、体温が急激に上昇したという。直ぐに駆けつけると、陸はガラスのゲージに移されて喘いでいた。今度は、ガラス戸を開いて、陸に触ることができた。妻は陸に顔を寄せ、呼びかけている。息はハアハアと荒い。私は、瀕死だと思った。連れて帰り家で看取ることも提案したが、まだ頑張れば望みはあるということで、病院に任せることにした。また明日の月曜日10時に来るんだからと失意のまま帰った。なにかあれば、午後11時までに電話をしてくれるそうな。家で、その11時も過ぎて、私たちは寝ることにした。まだ陸は生きているのだ。

長い夜が明けて月曜日、面会時間の午前10時に動物病院に着いた。陸は同じゲージだったが、頭の向きが反転していた。ガラス戸を開けてもらい、妻が陸に顔を寄せ声を掛ける。やっと私たちにしっかり気がついたのか、寝ている状態から伏せに移ろうとする。妻が「寝とき、寝とき」とまた陸を横にした。前脚を動かし何かを�き出そうとしている。そして、「ひゃーひゃー」と今まで聞いたこともない声をあげた。何を言いたいんだ。どう見ても喘いで苦しそうじゃないか。私たちが考え及んだ、安楽死のことを先生に伝えた。まるで、とんでもない、といわんばかりに、2〜3日様子を見ましょう。詳しい検査の結果も出ますからと言う。なおも陸は声をあげている。私には辛く苦しそうに聞こえる。でもそうだな。陸を連れてきて、まだ丸一日だった。それで病院側が安楽死など許すわけがない。妻はひとしきり顔を寄せてから、私たちは診察室を出て、病院をあとにして暖かい日和の中で車を走らせ家に帰った。こんなに麗らかな良い天気なのに。夕方前になって私はぼそっと妻に言った。「1時間半、1時間、次の年は30分で、次はほんの15分、そしてゼロかあ。年ごとの散歩時間で解るんだなあ」。私は今年15歳の陸の寿命を暗示した。すると妻は、「また15分でも散歩できるといいね」。えっ。何を言っている。そうか。そういう考え方もあるな。私は陸が死ぬことしか考えていないのだ。これじゃ〜ダークサイドに引き込まれる。暗黒への決めつけは良くないのだ。どんなに苦しくても動物は生きるために必死に生きているのだ。生きる可能性というか希望もあるじゃないか。なんといっても動物病院の獣医さんやスタッフの方々が最善のことをしてくれているのだ。妻のひとことで、私の気持ちがふわりと和んで、今日の日和のように暖かくなった。私は「うん」とだけ答えた。うん、ありがとう。と、心の中で妻に言った。今日も午後11時までに電話はなかった。陸は生きているのだ。闘っているのだ。

※写真は6年前の陸。この稿は終わりです。長文お付き合いありがとうございます。