あれから、もう3年、です。


朝からお寺へ。今日は、母の3年目の命日。実は、去年、おとどしと、母の一周忌や三回忌は行わなかった。父が、どうしてもするとは言わなかった。妻は、なんだか歯痒い思いをしていましたが。私は、父の思うとおりで良いと。母の四十九日のときに、母の従兄弟たちが集まったんだけれど、そのときにあんまり母の話題が出なくって、父が寂しい思いをしたからだと思う。私だってお義理で来ていただくより、本当の身内だけのお墓参りで十分だと悟ったから。要は、故人を偲ぶこと。まあ、集まる方は故人そっちのけの話が多いでしょうから。そうか、お寺さんの出番は少なくなるよね。それも時代の流れです。ところで父は、たぶんほぼ毎日、仏壇に線香を上げている。「お母ちゃんが喜ぶから」と私たちに言い、自分にも言い聞かせているのだろう。母はとっくに亡くなっているのだし、むしろ線香の火の始末が心配になる。だから、そんな心配を、母は喜ぶはずがない。どうして毎日、線香をあげるのか。それで、母を偲んでいるのならしょうがないが。生前は、どうだったのだろうか。おそらく、もっと良くしてやれば良かった。そんな後悔が、父に心の中にあるのかもしれない。亡くなった人を喜ばすことなど、決してできるはずがない。遅いのだ。きっと、母も喜ぶことでしょう、なんて言うのは、生者の言い訳なんだよね。だったら、なぜ、あのときに、もっと大切にしてやらなかったのか。そういう偽善が世の中に蔓延している気がする。喜びは、生者しか得られないもの。そのために、生きているものを尊ばなければ。そして、亡き母はお墓の中にいるんじゃなくって、父の頭や心の中にいるのだから。私にとっても母の思い出は頭というか、心の中にあるから。