おいしかった、水茄子のお漬物。


桃をご近所にお裾分けしたお宅から、茄子の漬物をいただいた。去年に続いて今年もである。つまり、去年も桃を届けているわけだが。去年は確信がなかったのだが、どうもそれは大阪泉州名物、水茄子の漬物らしい。普通、茄子の漬物だと、歯で噛むときにキューって感じがして歯ごたえがあるんだけど、この水茄子の漬物はサクッと果物のように柔らかい。そして、ほのかな糠漬けの味わいがある。これが漬物かと思うほど淡泊な浅漬けでサッパリしている。文句なくおいしい。私には、醤油や塩など調味料は必要ない。この水茄子は泉州特産で、皮の柔らかさが特長だそうな。妻の漬物もおいしいんだけれど、まるで別の味わいだ。京都の漬物より、遙かにおいしい。この漬物も、1年に一度だけの楽しみ。それでいいのだと思う。泉州水茄子の漬物は、夏ならではの味わい。


排他的な街、京都が被災松の送り火を拒否。

東日本大震災津波になぎ倒された岩手県陸前高田市景勝地高田松原」の松で作った薪にメッセージを書き込んで、京都の伝統行事「五山送り火」の大文字で燃やす計画が中止にされた。その理由が、放射能物質は大丈夫か、とか。灰が飛んで琵琶湖の水が汚染される、とか、どう考えても的外れな心配する京都人の声が京都市などに寄せられたという。陸前高田市放射能なんてほとんど影響がないはず。灰が飛んで琵琶湖の水が汚染される、というのも、毎回の送り火のことでしょう。要は、京都市民は、いつもの大文字送り火に、よそものの薪がもちこまれるのを嫌がっているだけなのだ。そうです。京都人というのは、ほかの地方からの人間が京都の住まいの中まで立ち入られるのを嫌がるのですよ。つまりは排他的なんですね。そりゃ観光都市だから表面的には、おいでやすとにこやかに愛想を振りまきますよ。でも、心の奥では、用事が済んだらはよ帰ってんか、なんですよ。

ある人が京都の街角で、居合わせた初老のおばあさんに、挨拶代わりに「今日は暑いですね」と、声を掛けたそうな。すると、そのおばあさんは「あんたはんは、わてのことしってはりますのんか」と怪訝そうに答えたという。「いいえ、存じ上げません。初めてだと思いますが」と返すと。そのおばあさんは「気安うに声かけたりせんといて」と言って、手押し車を押しながら帰っていたそうな。京都ってそうなんですよ。そりゃ〜、困っていて道を聞いたりするのは、教えてくれますよ。対等に話をすると、嫌がられるのです。要は、プライドが高いのですね。京都の人はよそもんをしっかりとはっきりと区別します。それが風土なんだから仕方のないことです。だから、送り火の被災松を拒否するのも、京都人にとっては当然のこと。自分たちの送り火の薪の中に、よそもんの薪が混じるのを嫌っているだけですから。不愉快な思いをさせてはいるでしょうけど、害はないはず。そもそも被災松を、わざわざ京都で送り火にしようなんて、余計なお節介をした人が悪いのですから。だからこそ、京都の文化が受け継がれているわけですから。