杉並の畑は、残っているのだろうか。

はまのうち

もう少し、東京を、杉並を振り返ってみましょうか。私が住んでいたマンションのほぼ真下、一方通行の道路向こうに畑が拡がっている。冬は砂埃が激しいが、春から夏にかけて、様々な野菜が植えられて、緑が拡がるのを楽しみに見た。シーズンになると、じゃがいも掘りに夢中になる園児たちの歓声がたびたび聞こえる。土に親しむことの感触をわずかでも覚えてくれていたら、将来は、日本の農業は、なんて、思うこともある。

もし、この畑が、転売されて住宅地にでもなったら、直ぐさま引っ越してやる、などと考えていたが。こちらの引っ越しが早く、そんな悲しい状況に出会うこともなく、私は杉並から去年に去った。その畑は、まだあるのだろうか。もう今となっては、どうでもいいが。目を楽しませてもらった感謝の気持ちだけが残っている。

杉並には、そんな畑が結構あった。今もあると思うが、少しずつ畑は、分譲住宅に変わっている。数年前には、ジャガイモ掘りの歓声に沸いた畑が、あっという間に整地され、自動車ディーラーの駐車場に変わっている。南向きで日当たりも良く。住宅地にすれば人気が出そうなのに、なぜか駐車場だ。

大きな邸宅なんかも取り壊されたのが目に付いたものだ。その跡地には、4戸、もしくは5戸の一戸建てが建築された。ぎっしりと建てるもんだねと感心したが。浜田山駅の徒歩圏に5カ所はあった新日本製鐵の家族寮や社宅も、ほとんどすべてマンションに取って代わった。社宅がマンションに変わったって、人口でたいして変化はないはず。大きな住宅費の出費が増えたはず。それが回りまわって首都圏に吸収されている。首都圏が潤うはずだ。

そんなこんなで首都圏、特に東京には人が移り住む。人が人を呼ぶ、東京の構図。中年の50代にもなるとそれが息苦しくなって、東京にうんざりしたのだが。若者には、様々な刺激や感性を磨いてくれる都市でもある。私だって28才で、東京へ出たのだから。1年前、大分の町中で、電話をしていた若者を思い出す。お金を貯めて東京へ出ようや。ラーメン屋を開いて、焼きうどんをメニューに加えて。そして君は小説を書く、と。若いカップルは、もう東京へ出たのだろうか。若いうちに、一度は東京を知っておくのも悪くはない。子供ができたら、故郷の大分に戻ればいいのだから。