93歳のおじいさんの寂しい死。

う〜ん、ブログに書こうか、書くのを止めた方がいいのか、随分迷ったんだけれど、やっぱり書くことにする。そのおじいさんもきっと無念だったろうし、同じことが、どこかで繰り返されたくないから。

去年の6月の終わり頃だった。梅雨特有の雨が降ったり、やんだりを繰り返して、その雨が止んだときのことだった。近所の93歳のおじいさんが、つっかけを履いて、杖を持ち、カメラをぶら下げて、いつものように散歩に出た。そして、行方不明になったのだ。この周辺は、ほんのちょこっと残った里山を取り囲むように、住宅地が開発され、残る田んぼもわずかとなった。だから、行方不明になったおじいさんも、直ぐに発見されると思った。次の日は、警察も出て、警察犬も出動。近所の人も総出で、周辺を捜索したけどおじいさんは見つからなかった。

それから8カ月が過ぎて数日前に、測量で里山に入った人が、おじいさんを見つけた。もちろん、とうに亡くなっていた。首には、カメラがぶら下がっていたそうだ。そのおじいさんは、カメラが趣味で、野草とかを採取するのも趣味だった。なにか気になる野草でも見つけて、藪の中に入ったのか。そのときに、突っかけ履きの足を滑らせて、さらに見えにくい藪中にうもれこんだのだと思われる。

発見現場から十数メートル近くは、人が散歩する道がある。誰しも、いつも歩いている場所なんだがなあ、と残念がった。だから、私も思った。どうして、地図をきっちり作成して、それぞれの面を潰していかないのか。みんなが三々五々に、勝手な方を探すと、どうしても空白地帯が生じる。その意味でも、きっちりとした捜索計画を立てないと。

ベッドの上でやすらかに最後の時を迎えられなかった、かわいそうなおじいさん。その無念は、おじいさんだけでなく、ご家族や、探した人々や、関係者にもあったはず。聡明な司令塔がなくては、問題が解決できないことおも示している。未解決事件や、様々な諸問題にも、同じことが言えるんじゃないかな。