葬儀の挨拶、できなかった。

通夜が終わり、次の日の葬儀が始まった。読経。火葬場へ移動。斎場に戻って食事。再び、火葬場へお骨拾い。そして、また斎場へ戻る。最後の読経。この時に、斎場の担当者から、喪主である父に、臨席された人々に対しての挨拶は、どうされますか。代弁しましょうか。と。父は、代弁をお願いしますと。

最後のお経が流れる中で、私は考えた。私が、父に代わって代弁しようかと。しかし、その内容を頭の中で整理すればするほど、目に涙がにじんでくる。おそらく、頭の中で文面が完成しても、言葉に出そうとすれば、嗚咽がきっと妨げるだろう。だから、読経の間に挨拶をすることはとっても無理だと断念した。

こんな時に、最後の挨拶を滞りなくしゃべることができる人って、よほど気丈な人か、感覚がない人かもしれない。でも、今だったら、ブログで、落ち着きながら思い起こせる。なので、ちょっと母のことを書かせてくださいね。

母は、大正9人に大阪の商家、12人兄弟の最後として誕生した。しかし、戦災や病死などもあり、実際として成人したのは9人。その末っ子だった。その母の兄弟も、7年前までにすべてが亡くなり、母は唯一の最後だった。9人兄弟が自慢だった母も、7年前に、私が生きている最後のひとりになった、と笑っていた。

1951年に父の元に嫁いだのだが、祖父や祖母がいる、昔ながらの二世帯同居の家庭。苦労は、いっぱいあっただろう。その点、私なんかは、20歳過ぎから家を出て、学生時代や社会人になってからも、お気楽なひとりぐらし。実家が気にしないで生きてきた。しかし母の存命中に結婚もしたし、1年前に奈良へ帰ってきて、少ないながらも母の世話ができた。おおきに、おおきに。それが、いつも母から返ってくる。

晩年に、母が口癖のように言った言葉がある。「みんな、なかよおしいやあ」と。父が仕事を辞めた80歳頃からは、父と母は、よく一緒に出掛けたという。ちょっと足が悪かった時の母は、父の腕にすがりつくように歩いたという。今で言うならば、腕を組んで歩く、ですね。父は、よく母の手を引いて歩いたとも言う。つまり、手をつないで歩いていたわけです。老人夫婦が、そんな風に歩いているのを想像すると、なんだか温かいものがある。母の口癖は、自ら実践していたんですね。仲のいい夫婦でした。「みんな、なかよおしいやあ」は、私たちや、私たち兄弟にとどまらずに、社会から近隣までの付き合いにも言えることなんですね。そして世界においても、です。だからこそ、「みんな、なかよおしいやあ」。この言葉をいつも胸に。